~ チョコレイト・シロップ ~2
丘の上にある若島津の家から、小さな川沿いにある日向の家まで、緩やかに続く坂を自転車に跨って下っていく。若島津は背中に背負ったナップザックに、志乃から貰ったチョコレートを紙袋ごと入れていた。坂を下りきったところでT字路に突き当たる。母親からも姉からも「曲がるときにはブレーキをかけて、ちゃんとスピードを落としなさい」と繰り返し言われているにも関わらず、車が来ていないことを目視と耳で確認すると、速度をほとんど落とすことなく右にハンドルを切る。車体が大きく弧を描いて、進行方向へと向きを変えた。
冷たい風が頬をなぶり、耳たぶが冷えて痛くなるが、それでも構わずに若島津はペダルを漕ぎ続けた。
やがて日向の家に着くと、玄関の横に自転車を止め、若島津は呼び鈴を押す。少しのタイムラグがあり、中から「はーい」という声が聞こえた。日向の声だ。
ガラガラと引き戸を開けて現れたのは、先程小学校で別れたばかりの日向だった。そしてその後ろに、4つ年下の尊がちょこん、顔を出している。
「よお、来たな。・・・なんだ、鼻の頭が赤いぞ。自転車で来たのか?」
「そうだよ」
外装6段変速の自転車は、2ヶ月前の誕生日に買ってもらったばかりのものだった。若島津の年頃の子供が乗るのに、至ってありふれた型の自転車ではあるが、フレームの色だけは周りであまり見ない、鮮やかなオレンジ色のものを選んだ。家族には「イメージと違うね」と言われたが、若島津は気に入っていた。
それまで乗っていた古い自転車は、今は所有者を尊に替えて、日向家の借りているアパートの自転車置き場に止まっている。
「早く中に入れよ、寒かっただろ。炬燵で暖まって待ってろ。すぐに作るから」
「お邪魔しまーす・・・。あれ。直子ちゃんたちは?」
「直子と勝は保育園だよ。母ちゃんが帰ってきたら迎えに行くんだ。・・・健兄ちゃんは座ってていいからね。俺が兄ちゃんを手伝うから」
日向の代わりに、尊が答える。「こっちに座って待っていて」と若島津を炬燵に当たらせ、「みかん、食べる?」と聞いてくる。小さいのに気が利くと、若島津ですら思う。
「もう焼くぞー。尊、そっちのテーブルの上にあるもの、片付けておいてくれ」
「はーい」
日向がホットプレートを出してきて、コンセントを差し込む。
鉄板が熱くなるのを、暫し神妙な顔をして三人で待つ。「もういいかな」日向が呟き、鉄板の上に水と牛乳で溶かしたホットケーキの素を、そろりとお玉で落としていく。
丸く広がったホットケーキは、しばらくするとブツブツと小さな泡ができて、穴が開いた。
「何だかこのブツブツ、よくよく見ると気持ち悪いよな」
「そうかあ?・・・ホントだな。よく見るとキモい」
頭を寄せ合い、ホットケーキが焼けていく過程を観察しながら待った。大人がいないときに使える調理器具は限られている。日向家でも、子供たちしかいない時は、ホットプレートか電子レンジ、オーブントースターしか使用が許されていなかった。ガスレンジは母親がいるときしか触らない、という約束だ。
「そろそろひっくり返すぞ。・・・せーのっ!」
日向が器用にホットケーキをフライ返しでひっくり返すと、若島津は「日向ってすげーな」と感嘆したように呟いた。
「何が」
「だって、料理できるってすごいじゃん」
「ホットケーキだぞ?これ、料理って言うか?ただ焼くだけだぞ」
「それでもすごいって。俺、自分家じゃ何にも作ったことないもんな。お前、他に何作れんの?」
「ホットプレートで出来るやつだから、焼きそばとか、お好み焼きとか・・・。母ちゃんがいる時はガス台使っていいから、カレーとかシチューも作るぞ」
「すげー!野菜とか、ちゃんと包丁で切るのか?」
「そりゃあ、そうだろ」
「いいなあ~。カレーも俺、食べてみたいなあ~」
「・・・別にいいぞ。また来いよ」
傍から見ると大袈裟なほどの若島津の賛辞に、日向は少し気恥ずかしくなる。尊はといえば、兄とその親友のやり取りを興味深そうに見ていた。
「・・・さてと。焼けたな。若島津、好きなものかけて食べろよな」
「俺はバターだけでいいや」
日向が若島津の前に置いてくれたホットケーキは、こんがりとキツネ色に焼けて、ホカホカと湯気を立ててとても美味しそうに見えた。
ホットケーキのパッケージについていたシロップや蜂蜜を日向が出してきて、テーブルに並べる。
「尊は何をかける?メープルシロップにするか?」
「えっと・・。チョコレートシロップ、まだある?」
「あるぞ。それにするか?」
「うん!」
次に日向が冷蔵庫から出してきたのは、『HERSHEY'S』とボトルに書かれた、チョコレートのシロップだった。兄からそれを受け取った尊は、自分のホットケーキにシロップをクルクルとかけた。途端に甘ったるい匂いが部屋中に広がる。
「へえ・・・。チョコレートのシロップなんかあるんだ」
「すげー甘いぞ。お前には駄目かも」
若島津が甘いものを苦手としていることは日向も知っているから、前もって忠告をしておく。
「俺もそれかけてみようかな。・・・日向、かけてよ」
「やめといた方がいいんじゃないか?本っ当~に甘いんだぞ?」
「いいから、かけてよ。ホラ」
若島津は日向に皿を差し出して、チョコレートシロップをかけろと催促する。
「何で俺だよ・・、面倒なヤツだなー。自分でかけろよ」
「いいじゃん。かけろってば」
「自分でやれよ」
「いいじゃん、ケチ」
日向は「ガキじゃねーんだから」と言うが、若島津も諦めない。不毛な言い合いを、尊はホットケーキをモグモグと咀嚼しながら眺めている。
やがて日向は、「・・・しょーがねえなあー」と言って、若島津の皿にグルグルっと適当にシロップをかけた。
「えー!何、可愛く絵とか描いてくれないわけ?」
「うっせ。文句あるなら、自分でやれよ」
「俺は絵を描いたりするのは苦手なんだよ。はい、も一回。ちゃんと丁寧に描いて。」
「お前なあ・・・。そんなんどうでもいいから、冷める前に食えよ」
呆れたように日向が言うと、尊は自分のフォークを一旦置き、チョコレートシロップのボトルを持って若島津に近づいた。ニコっと笑いかけると、若島津のホットケーキに小さくハートを描いた。
「こういうことでしょ。健兄ちゃん」
上手に描けたでしょ、と笑う尊に、若島津もつい笑ってしまう。すると今度は、尊は描いたばかりのハートの真ん中に、ジグザグの線を1本付け加えた。
「・・・で、今はこんな感じだね」
悪戯が成功した子供そのままに、舌を出して見せる尊を、若島津は軽く小突く。
「お前は、ほんっと兄貴と違うよなぁ~。」
「それ、褒めてくれてるんでしょ?」
「褒めてるんだよ。お前みたいなのがいれば、兄ちゃんがどんだけ天然でも、安心だよなー、・・・って思ってさ」
妙に仲の良さそうな弟と親友の姿を、日向は不思議なものを見るような目つきで眺め、やがて『 分からない 』というように首を傾げた。
「あいつって、変わってるよなあ・・・」
「あいつって、健兄ちゃんのこと?」
若島津はホットケーキを平らげた後に、「これ、うちの姉ちゃんから」と言って、小さな可愛らしい袋に入ったチョコレートを出した。日向が一口齧ってみると、外側はパリっとした薄いチョコレートでコーティングされていたが、中は柔らかいガナッシュだった。
美味しい!これ、姉ちゃんが作ったの?すげー、うまい!
美味しいー。
若島津は「姉ちゃんに言っておくよ」と言い、自分も1粒を口に入れる。舌の上で蕩けるチョコレートは、志乃の彼氏の好みなのか、甘さ控えめなのに濃厚だった。
食器の片付けをして、サッカーのことや学校のことを話しているうちに時間が過ぎてしまい、「あ、俺、空手の練習に行かなくちゃ!」と若島津は慌しく出て行った。日向が「姉ちゃんにお礼言っておいてくれ」と言うと、「分かった。また後でなー!」と返事をして、自転車を漕いでいく。空手の練習が終わったら、サッカーの練習をする約束をしている。クラブが無い日でも、ボールに触らない日など日向には無かった。時間が合えば、若島津もそれに付き合ってくれた。
「やっぱ、甘いの嫌いなんじゃねえかよ。・・・なんであんなに、シロップをかけるんだよなあ」
日向がテーブルの上から取り上げたのは、若島津が1粒だけを食べて、残していったチョコレートの袋だった。若島津は「うん、ウマイね」と言っていた割に2粒目までは手が伸びず、残りを尊にくれたのだった。
日向は首を捻って「よくあいつ、ホットケーキ完食したよな」と呟いた。
自分から『かけろ』と言ったくせに、いざチョコレートシロップのたっぷりかかったホットケーキを一切れ口に入れた途端、眉間にしわを寄せていた。「ホラ見ろ」という日向に、若島津は「ちゃんと、ふっくら焼けてるじゃん。美味しいよ」といって、二口目を頬ばった。日向は自業自得だと思っていたので、泣きを入れるまで放っておくことにしたが、結局若島津は大量のチョコレートシロップのかかったホットケーキを完食した。今頃は胸焼けでも起こしているんじゃないか・・・と日向は思う。
「甘いの好きじゃなくても、欲しい時ってあるんじゃないの?」
「でもよ。せっかく人が止めとけ、って言ってやってるのに。大体頑固なんだよな。あいつは」
「・・・それはそうかも。でも、健兄ちゃんって強いよね。くじけないもんね」
「あ?」
「俺も見習おうっと。・・・そうだ、兄ちゃん。これ、どうしたらいいかな」
これ、と言って尊が隣の部屋から抱えてきた袋を見て、日向は目を丸くした。
紙袋の中には、どうみてもバレンタイン用に包装されたチョコレートが大量に入っていた。
「・・・これ、お前の?」
「俺、いらないって言ったのに、女子が何人かで押し付けていったんだよ。こんなに貰っても、お返しあげられないよ・・って言ったら、それでもいいからって。捨てる訳にもいかないし持って帰ってきたんだけど。・・・・直子や勝にあげていいかな?」
「・・・喜ぶんじゃねえか?」
「そう?・・・良かった!」
少しバツが悪そうに打ち明けた尊は、兄のその返事にホッとしたように笑った。
「そういえば、兄ちゃんは?貰わなかったの?」
「・・・・・・・・・」
兄ちゃんはな、決して貰えなかった訳じゃない・・・・と主張するべきか、せざるべきか。
一点の曇りもない、澄んだ弟の瞳を見つめながら、11歳の日向小次郎は暫し腕を組んで考えた。
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